Partager

第五話 必要な連絡先

Auteur: 海野雫
last update Date de publication: 2026-02-05 20:00:25

 あれから一週間が過ぎた。

 鷹宮から連絡先の整理を促されることもなく、平穏な日々が続いていた。あのとき「ゆっくりやっていこう」と言ってくれたのは本当だったらしい。「強制ではない」とも言っていた。しつこく迫ってくる性格ではないのだと分かり、湊は少し安心していた。

 平日の仕事を淡々とこなし、二度目の週末を迎えた。

 朝食の席で、鷹宮がいつものように聞いてきた。

「今日の予定は?」

 先週と同じ質問だった。でも、今週は答えが違う。

「今日は……どこへも行く予定はありません」

 本当に、どこにも行きたいと思わなかった。先週、鷹宮と一緒に出かけたときのことを思い出す。自分のペースで歩けなかった。気になる店があっても立ち止まれず、服も鷹宮の好みで選ばれた。

 また同じことになるくらいなら、出かけない方がいい。

 そう思っていたことに、自分でも気づいていなかった。

「本当にどこも行かなくていいのか?」

 鷹宮が、心配そうに覗き込んだ。

「もし必要なものがあれば、買いに行けばいい」

「はい。先週買っていただいたもので十分です」

「本当に?」

 なぜか食い下がってくる。その様子がおかしくて、湊は小さく笑った。

「本当です。ありがとうございます」

「そうか」

 鷹宮が、眉を下げた。残念そうな顔をしている。

 その表情を見ると、胸の奥がぎゅっと締まった。なんだか、出かけないことが悪いことのように思えてくる。

「鷹宮さんこそ、どこかに出かけないんですか?」

 話題を変えようとして、つい聞いた。

 鷹宮が、目を見開いた。一瞬、驚いたような顔をする。

「僕は、特に出かける用事はない」

 そして、湊をまっすぐに見つめて言った。

「君がどこも行かないのであれば、僕も出る必要はない」

 その言葉が、胸に落ちた。

 ――俺に予定を合わせている。

 鷹宮には鷹宮の生活があるはずだ。友人もいるだろう。行きたい場所だってあるだろう。それなのに、湊が出かけないから自分も出ない、と言っている。

「そう……ですか」

 優しさなのだと思った。そのはずなのに、どこかが引っかかった。

 鷹宮が、テーブルの上で手を組んだ。

「今日はどこも行く予定がないなら、先週の続きをやろうか」

 湊の背筋が、ぴくりと強張った。

 先週の続き。

 スマートフォンに保存してある、連絡先の整理のことだ。

「え……と、あれから何もしてなくて……」

「構わない。今からやればいい」

 鷹宮がソファに移動した。湊も、自然とついていく。

 隣に座ると、鷹宮に距離を詰められた。肩が触れそうなほど近い。鷹宮の目が、湊をまっすぐに見つめている。

 逃げられない。

「……わかりました」

 湊は、スマートフォンを取り出した。ロックを解除し、連絡帳を開く。

「先週も言ったが、連絡先を残す相手は、親族や友人など最低限でいい」

 鷹宮の声が、低く響いた。

「君に今必要なのは、休養だ」

 湊は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 ――休養。

 確かにそうだ。親しくもない相手から連絡が来れば、精神が削られる。それが元婚約者の知り合いだったりしたら、なおさらだ。思い出したくないことを思い出させられる。

 鷹宮の言うことは、正しいように感じた。

 上から順番に、連絡先を確認していく。先週は「まだ連絡するかもしれない」と思って残した相手も、今日は消していく。

 一件消すたびに、胸の奥が軋んだ。

 自分の世界が、少しずつ狭くなっていく。名前が消えるたびに、繋がりが断たれていく。

 でも、それは必要なことなのだ。休養のために。回復のために。

 そう言い聞かせながら、指を動かし続けた。

 再び、西村の名前で手が止まった。

 西村直哉。

 前の職場の同僚で、唯一、会社を辞めてからも連絡をくれていた人だった。最近は連絡がないが、もしかしたらまた連絡をくれるかもしれない。

 前職で、西村だけが湊の心を許せる相手だった。

 ――どうしよう。

 指が、削除ボタンの上で止まった。

 そのとき、スマートフォンが震えた。

 通知バナーに、メッセージの内容が表示された。

『久しぶり』

 西村からだった。

 心臓が、跳ねた。

『元気か?』

『しばらく連絡してなかったから、気になって』

 メッセージが、次々と届く。西村の、湊を気遣う言葉が並んでいく。

 懐かしさに、思わず頬が緩んだ。

 西村は元気にしているらしい。それだけで、胸が温かくなった。

 返事をしようか迷っていると、さらにメッセージが届いた。

『今、どうしてるか心配してる』

『仕事の話もあるし、会って話さないか?』

 湊の指が、止まった。

 ――仕事の話。

 心臓が、どくりと鳴った。

 仕事。働くということ。自分で稼ぐということ。

 今の湊には、何もない。鷹宮に養われ、住む場所も食事も服も、すべて用意してもらっている。自分では何も持っていない。

 でも、もし西村が仕事を紹介してくれるなら――。

 自分で働ける。自分で稼げる。自分の足で立てる。

 その可能性が、胸の奥で小さく光った。

 湊は、横目で鷹宮を見た。

 表情は凪いでいる。何を考えているのか、読めない。でも、視線はじっとスマートフォンの画面に注がれていた。

 ――見られている。

 メッセージの内容も、きっと見えている。

 でも、鷹宮は「連絡先は最低限残していい」と言った。友人は残していいとも言った。西村は、その「最低限」に入るはずだ。

 だったら、返信しても問題ないはずだ。

 湊が画面をタップしようとしたとき、鷹宮が口を開いた。

「その人は?」

 低い声だった。

 湊の指が、止まった。

「前の職場の同僚です。西村っていう――」

「前の職場の人間か」

 鷹宮の声が、さらに低くなった。

「会社を辞めてからも、連絡を取り合っていたのか?」

「たまに、ですけど……」

「なぜ?」

 その問いに、湊は答えられなかった。

 なぜだろう。どうして西村とつながっていたかったのか。理由を言葉にしようとしても、うまくまとまらない。

 鷹宮が、湊の手からスマートフォンを取り上げた。

「待っ――」

「仕事の話がある、と言っているな」

 鷹宮が、画面を見つめている。声に感情がない。だからこそ、怖かった。

「今の君に、仕事は必要ない」

「でも――」

「君は、僕のところで働いている。他の仕事を探す必要はない」

 正論だった。

 鷹宮のところで働いている。住み込みで、秘書補助の仕事をしている。給料は借金の返済に充てられているから手元には残らないけれど、生活に困っていない。

 他の仕事を探す理由など、ない。

「それは……そうですけど……」

「この人は、君に何を期待しているんだ?」

 鷹宮が、湊を見た。目が冷たかった。

「久しぶりに連絡してきて、会いたいと言っている。仕事の話があると言っている。君を利用しようとしているんじゃないのか?」

「西村は、そんな人じゃ――」

「どうして分かる?」

 鷹宮の声が、鋭くなった。

「君は以前も、人を信じて裏切られた。それを忘れたのか?」

 その言葉が、胸の奥に突き刺さった。

 元婚約者のことを言っている。信じて、愛して、すべてを捧げて、裏切られた。騙されていたことにも気づかなかった。

 湊には、人を見る目がない。

 それは、自分でも分かっていることだった。

「でも……西村は……」

 声が、震えた。

「西村は、ずっと心配してくれてたんです。俺が会社を辞めてからも、たまに連絡をくれて……」

「それが本当かどうか、どうやって確かめる?」

 鷹宮が、スマートフォンを湊に返した。

「君が外とつながることで、また傷つくかもしれない。僕は、それを見たくない」

 その声は、優しかった。

 優しいのに、喉が詰まった。

「今の君に必要なのは、外の人じゃない」

 鷹宮が、湊の頬に手を添えた。

 温かい手だった。指先が、そっと肌を撫でる。

「僕がいる。僕が守る。それだけで十分じゃないか」

 湊は、鷹宮の目を見つめた。

 穏やかで、優しくて、真剣な目。この人は本気で湊のことを心配している。傷ついてほしくないと思っている。

 ――守られている。

 その感覚が、胸に広がった。

 でも同時に、息苦しさも感じていた。

「……返信、してもいいですか」

 小さな声で、聞いた。

 鷹宮の手が、止まった。

「何と返すつもりだ?」

「今は……会えない、って……」

 それ以上は言えなかった。

 会いたくないわけじゃない。でも、会うと言ったら鷹宮がどんな顔をするか分からない。怒らせたくない。嫌われたくない。

 この場所を、失いたくない。

「それでいい」

 鷹宮が、小さく頷いた。

「会えないと伝えろ。理由は言わなくていい」

「……はい」

 湊は、震える指でメッセージを打った。

『連絡ありがとう。今はちょっと会えない。落ち着いたらこっちから連絡する』

 送信ボタンを押す前に、鷹宮が画面を覗き込んできた。

 見られている。

 確認されている。

 湊は、そのままボタンを押した。

 メッセージが送信された。

 すぐに既読がついた。返信が来るかと思ったが、西村からはそれ以上何も届かなかった。

 ――怒らせたかな。

 胸が、ちくりと痛んだ。

 鷹宮が、湊の肩に手を置いた。

「それでいい」

 また、同じ言葉を言った。

「君は、ここにいればいい。外のことは、考えなくていい」

 その夜、湊はベッドの中で目を開けていた。

 眠れなかった。

 西村のメッセージが、頭から離れない。

『会って話さないか?』

 会いたかった。

 本当は、会いたかった。

 久しぶりに、鷹宮以外の人間と話したかった。昔の話をしたかった。仕事の話を聞きたかった。自分がまだ「外の世界」とつながっていると、確認したかった。

 でも、断ってしまった。

 鷹宮に見られていたから。怒らせたくなかったから。

 ――違う。

 湊は、目を閉じた。

 違う。本当は、分かっている。

 断ったのは、鷹宮のせいじゃない。自分で選んだのだ。会わないと決めたのは、自分だ。

 でも、本当に、自分で選んだのだろうか。

 鷹宮がいなかったら、返信の内容は違っていたのではないか。

 画面を覗き込まれていなかったら、「会おう」と言っていたのではないか。

 分からなかった。

 自分の意志なのか、鷹宮の意志なのか。どこまでが自分の選択で、どこからが誘導されているのか。

 境界が、曖昧になっている。

 スマートフォンを取り出して、連絡帳を開いた。

 西村直哉の名前が、まだそこにある。

 消されていない。消していない。

 ――これは、俺の意志だ。

 この名前を残すことだけは、自分で決めた。鷹宮に言われても、消さなかった。

 それだけが、湊に残された「外の世界」だった。

 スマートフォンを胸に抱いて、目を閉じた。

 眠れないまま、朝が来た。

 翌朝、朝食の席で鷹宮が言った。

「昨日の人から、返信は来たか?」

 湊は、首を横に振った。

「来てないです」

「そうか」

 鷹宮は、それ以上何も言わなかった。

 でも、湊には分かった。

 鷹宮は、西村から返信が来なかったことに安心しているのだ。湊と外の世界の繋がりが、また一つ細くなったからだ。

「今日は、会社で少し作業がある。一緒に行くぞ」

「……はい」

 湊は、頷いた。

 鷹宮について行く。言われた通りに動く。考えなくていい。従っていればいい。

 その方が、楽だった。

 でも、胸の奥で、何かがくすぶっていた。

 西村のメッセージ。『仕事の話がある』という言葉。

 自分で働く。自分で稼ぐ。自分の足で立つ。

 その可能性が、まだ消えていなかった。

 湊は、鷹宮の背中を見つめながら思った。

 ――いつか、ここから出られるのだろうか。

 出たいのかどうかさえ、もう分からなくなっていた。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第三十話 逃げられると思っていた

     朝の光が、キッチンに差し込んでいた。 窓から見える空は、澄んだ青色だった。雲一つない、穏やかな朝。 初めて、雄一と並んでキッチンに立った。 手伝うといい出したものの、雄一のあまりの手際の良さに、その場に立ち尽くすしかなかった。逆に手出しすれば、邪魔になってしまう。 野菜を切る音が、リズミカルに響いている。フライパンが温まる音。卵を溶く音。 雄一の動きは、無駄がない。まるで、何年も同じ動作を繰り返してきたかのような自然さ。 湊は、その姿を見つめていた。 昨夜のことが、まだ頭に残っている。書斎での会話。雄一の過去。あの悲しそうな目。 そして、今朝の抱擁。 少しずつ、壁が溶けていく感覚があった。「ずっと思ってたんですけど、雄一さんっていつから自炊してるんですか?」 雄一は、手元から目線を外さずに答えた。「僕は大学時代にひとり暮らしをしていたからね。そのときからだ」「そうですか……。すごいですね」「大したことなどしていない。食べることは身体を作るもとになるから、きちんと整えたいだけだ」 確かに、いわれればその通りだ。人の身体は、食べたもので作られている。食材を選んで丁寧に調理すれば、中になにが入っているか自分でも把握できるし、健康維持に役立つ。 湊は、食べることに関して無頓着だった。食べられればいいと思っていたし、お金がなければ食べなければいい。そんなふうだったから、体調を壊しやすかったのかもしれない。 ネットカフェで暮らしていたころを思い出した。コンビニのおにぎりと、カップ麺。それが、湊の食事だった。 あのころの自分と、今の自分は、全く違う。 雄一と出会って、変わった。「雄一さんはすごいですね……。俺なんて自炊したことないから……」「これからやればいい。僕が教えるから」 雄一は包丁を握っていた手を休め、湊に目を向けた。口角が少し上がって

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十九話 それでもここにいる

     湊は、身体中が痛くて目が覚めた。 まるでネットカフェで寝起きしていたころのように、身体がだるい。首が凝っている。腰も痛い。全身が軋んでいる。 部屋の中は薄暗く、夜明け前だということが分かった。 薄暗い中、目を凝らして天井を見つめた。そこは、いつも見ているゲストルームではなかった。 昨日、雄一の書斎で身体を合わせたのだった。そのままソファで寝てしまったらしい。 記憶が、ゆっくりと戻ってくる。 雄一の過去を聞いた。母親と父親を亡くし、義母と弟にすべてを奪われ、恋人まで奪われたという話だ。 だから雄一は、大切なものを囲い込もうとするのだ。 失う前に、手元に置いておきたいのだ。 その気持ちが、痛いほど分かった。 雄一の姿を探すと、湊の足元のソファに背中を預けて、床に座ったまま眠っていた。 そんな姿勢だと、身体が痛くなるだろうに。 ベッドもソファもあるのに、なぜ床に座って寝ているのだろう。 湊は、その姿を見て、胸が締め付けられた。 熱烈に肌を合わせたのが嘘のような距離感だった。 昨夜は、あんなに近かったのに。あんなに熱く繋がったのに。 今は、まるで別々の世界にいるようだ。 それはきっと、雄一の心の中にある不安を表しているのだろう。 雄一は、常に不安なのだ。 義母と弟に大切なものを奪われ続けてきた。だからこそ、大切なものを囲い込もうとする。 でも同時に、どんなに囲っても、いつかは奪われると思っている。 どんなに愛しても、いつかは去っていくと思っている。 だから、近づきすぎることを恐れている。 けれど今、湊は雄一の腕の中にいない。 雄一ががんじがらめに縛りつけていたものが、少しゆるんだのだと感じた。 以前の雄一なら、湊を腕の中に閉じ込めて眠っていただろう。離さないように、逃げられないように。 でも今は、床に座って、湊から少し離れた場所で眠っている。

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十八話 囲う理由

     ダイニングテーブルの片隅には、ロジカルシンキングに関する本が積み上げられていた。 雄一の役に立ちたくて、ロジカルシンキングを勉強したいと思った。まずは論理的な考え方を身につける必要があると感じたからだ。「俺、考えをまとめるのが苦手で……」 雄一にそう溢すと、ロジカルシンキングを学ぶことを勧められた。「それなら、僕も何冊か本を持っている」 そういって、書斎から本を持ってきてくれた。社長は、自分の事業だけでなく幅広い知識が必要だと考えており、日頃から学んでいるのだという。 最初は、帰納法や演繹法などといわれてもちんぷんかんぷんだった。でも、本を読み進めていくうちに、なんだか面白くなってきた。 今まで、頭の中でどのような処理が行われているかなんて、考えもしなかった。脳の働きってすごいな、と感心しながら学んでいるうちに、自分が今どんな思考をしているのかがわかるようになってきた。それがとても面白い。 湊は、ソファに座っている雄一に目を向けた。 彼は真剣にタブレット端末を見ている。最近知ったのだが、雄一は読書家らしい。電子書籍で本を読み、新聞にもオンラインで目を通しているといっていた。その中には業界紙も含まれているそうだ。「紙は場所を取るからな」 その言葉を聞くと、やはり雄一は効率的だと思う。 そんな雄一が、眉間に皺を寄せながらタブレット端末を見つめている。きっとなにか気になる記事があったのだろう。その目は、とても真剣だった。 以前だったら、こんな自由な時間を持てるなんて思わなかっただろう。常に雄一に監視されていると思い込んでいたから、なにをするにもびくびくしていた。 でも今は、違う。 幸せだな。 湊は口元を緩めて、再び手元の本に目を落とした。* 湊は、全ての本を読み終えて、伸びをした。 ソファに目を向けると、雄一はそこにいなかった。「雄一さん?」 声をかけてみたが、返事はない。トイレへ行っているのかと思って見に

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十七話 選ぶこと

     目が覚めると、真っ白な天井が目に入った。 朝のやさしい光が、カーテンの隙間から漏れている。 何度も、この部屋で目を覚ました。自由がなくて息苦しくなり、逃げ出したこともある。けれど、結局はまた戻ってきた。 以前は息苦しさを感じていたのに、嘘のように今はそれがない。 それはきっと、昨日「自由」を得たからだ。いや、「自由」という名の囲いの中にいると知った、といったほうがいいのかもしれない。 もうこれからは、怯えて生きる必要などない。借金取りに追われることも、相馬のことを思い出して悲しむこともない。 過去は、処理された。 その事実が、湊の心を軽くしていた。 ベッドから身体を起こした。 あたりは静寂に包まれていた。部屋はしんと静まり返り、なんとなく寂しく、冷たく感じた。まるで氷の中に閉じ込められたような感覚だった。 以前なら、この静けさが怖かった。閉じ込められている、と感じていた。 でも今は、違う。 雄一の「君は自由になれる」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 本当に湊は自由になれるのだろうか。この囲われた生活の中で、自由を手に入れられるのだろうか。 それは、わからない。 けれど、雄一に守られていることだけは確かだった。 守られている。その言葉を、湊は初めて素直に受け入れることができた。 以前は「囲われている」と感じていた。縛られている、閉じ込められている、と。 でも今は、少し違う見方ができるようになっていた。 雄一は、湊を傷つけようとしているわけではない。湊を苦しめようとしているわけではない。 ただ、不器用なのだ。愛し方が、わからないのだ。 表情が乏しくて、言葉が少なくて、感情の伝え方を知らない人。 でも、その奥には、本物の愛情がある。湊を大切に思う気持ちがある。 それを、湊はようやく理解し始めていた。 守られながら、なにかできるかもしれない。 そう思った瞬間、心が

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十六話 処理された過去

     もうすっかり、雄一のそばでの生活にも慣れてきた。 最初はなにもせずに、ただそばにいるだけだった。雄一についていって、会議を聞いて、商談を見て、移動して、帰ってくる。それだけの毎日。 でも、湊の性格上、じっとしているのが苦手だ。なにかしていないと落ち着かない。手持ち無沙汰でいると、自分が価値のない存在に思えてくる。 だから、雄一に頼み込んだ。「なにか、仕事をさせてください」 最初は断られた。「君はなにもしなくていい」と。でも、湊は引き下がらなかった。何度も、何度も頼んだ。 そして、ようやく許可が出た。 職場の執務室で、お茶を出したり書類を整理したりする雑務。本当の秘書の仕事ではないけれど、なにもしないよりはずっとマシだった。「仕方ないな」 雄一はそういった。口調は呆れたようなのに、表情はどこか嬉しそうだった。 それも、他人が見てもまったくわからないほどの変化だった。少しだけ目尻が下がって、口角が上がっている。湊だから気づける、微かな変化。 雄一は、湊が出奔する以前よりも表情が豊かになったように感じる。こうやって嬉しそうな顔をしてくれる。困った顔をする。笑う。 もちろん、他人にはわからないほどの表情の変化だと思う。でも、湊にはわかる。 それが、少し嬉しかった。 執務室での仕事は、雑用でも任せてもらえるからいい。 お茶を入れて、「ありがとう」といわれる。書類を整理して、「助かった」といわれる。小さなことだけど、役に立っているという実感がある。 三崎とも、少しずつ話すようになった。雄一が三崎に対して嫉妬したことがあることから、最初は警戒していたけれど、三崎は意外と親切だった。仕事のやり方を教えてくれたり、わからないことを説明してくれたり。 ただ、時々、三崎の目が鋭くなることがあった。なにかを観察しているような、品定めしているような目。 それがなにを意味するのか、湊にはわからなかった。 執務室での仕事は良かったけれど、外出だけは苦痛だった。 取引先との商

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十五話 檻の中の日常

     雄一のもとに戻って、朝を迎えた。 いつもと同じ時間に起きてシャワーを浴び、雄一の作った朝食を食べた。前と変わらない朝だった。 テーブルには、完璧に盛り付けられた和食が並んでいる。焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯。どれも美味しそうで、栄養バランスも考えられていた。 雄一は、湊のためにこれを作ってくれた。毎朝、湊より早く起きて、黙々と準備をしてくれている。 そのことに、感謝すべきなのだろう。でも、湊の心は複雑だった。 自分ではなにもできない。なにもさせてもらえない。ただ、用意されたものを受け取るだけ。 それが、湊の役割だった。「今日は僕と一緒に外回りについてきてくれ」 今までは、平日であっても「今日の予定は?」と聞かれていた。秘書の仕事を告げると、雄一は満足げに頷いていた。 しかし今日は、予定を聞かれることなく、雄一から今日の予定を告げられた。 湊の予定ではなく、雄一の予定に組み込まれている。湊は雄一のスケジュールの一部になっていた。「分かりました」 湊は、頷くしかなかった。「必要なものがあれば僕が買うから、言って」「今のところ、特にありません」「そうか」 雄一は頷いた。口元がなんとなく緩んでいるのは、湊がここにいるからだろうか。 湊がそばにいるだけで、うれしいのだろうか。 そう思うと、複雑な気持ちになった。うれしいような、苦しいような。「そうだ。これ」 雄一が、スマートフォンを取り出した。 湊が逃げたときに、この部屋に置いていったものだ。位置情報を追跡されないように、わざと置いていった。「ここに忘れていただろう? 初期化しておいたから」「えっ?」 その言葉に、ぞっとした。 初期化。つまり、中身は全て消えたということだ。連絡先も、メッセージの履歴も、写真も、アプリも。全て、なくなった。 西村の連絡先も。山田の連絡先も。外の世界との繋がりが、全て消えた。

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第六話 逃げる理由がなくなった

     朝、目が覚めると最初にすることがある。 枕元のスマートフォンを手に取り、画面を確認する。 通知は、ない。 以前は、そんな朝が当たり前だった。仕事の連絡、友人からのメッセージ、ニュースの通知。画面にはいつも何かが表示されていて、それが湊を外の世界に繋ぎとめていた。 今はもう、何も届かない。 連絡先を整理した。鷹宮と一緒に、一件ずつ確認しながら連絡先を消していった。とはいえ、以前から頻繁にやり取りをしていたわけではない。消えたところで、実際には何も困らない。 困らないはずなのに、なぜかあれ以来、

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第四話 外出申告制

     鷹宮のマンションで暮らし始めて、初めての週末が訪れた。 会社は休みのはずだが、鷹宮は朝、いつもと同じ時間に湊の部屋をノックした。「おはよう。朝食は十分後だ」 それだけ告げると、部屋を出ていく。 平日と同じだ。起こされる時間も、シャワーを浴びるまでの流れも、すべて同じ。休日だからといって、何かが変わるわけではないらしい。 湊はベッドから起き上がり、脱衣所に向かった。 そこには、いつものように着替えが用意されていた。薄いグレーのニットと、紺のスラックスだ。シンプルだが、質のよさそうな生地だ。

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第三話 ここで暮らすということ

     コンコン。 扉をノックする音で、目が覚めた。 目に入る天井は真っ白で、見慣れないシーリングライトが視界の端にある。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。 ――ここは、どこだ。 そうだった。昨日、鷹宮の自宅に連れてこられ、ここで住み込みで働くことになったのだ。契約書にサインをし、この部屋を与えられたまま眠りに落ちた。 身体をゆっくりと起こし、窓に目をやる。カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。 部屋の扉が、音もなく開いた。「おはよう。よく眠れたか」

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二話 雇用契約

     食事を終えた湊は、窓辺に立っていた。 鷹宮の住む高級マンションは、湊がこれまで暮らしてきた場所とはまるで別世界だった。ベランダに面した窓は天井近くまで届く一枚ガラスで、都心のビル群を眼下に見下ろすことができる。床は艶やかなフローリングで、素足で歩くと、冷たくも温かくもない、ちょうどいい温度が伝わってくる。 空気が違う。匂いが違う。音が違う。 ついさっきまでいたネットカフェの消毒液の匂いも、路上の排気ガスの匂いも、ここにはない。代わりにあるのは、かすかなアロマの香りと、静けさだけだった。 まだ午前中だ。 ほん

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status