LOGINあれから一週間が過ぎた。
鷹宮から連絡先の整理を促されることもなく、平穏な日々が続いていた。あのとき「ゆっくりやっていこう」と言ってくれたのは本当だったらしい。「強制ではない」とも言っていた。しつこく迫ってくる性格ではないのだと分かり、湊は少し安心していた。
平日の仕事を淡々とこなし、二度目の週末を迎えた。
朝食の席で、鷹宮がいつものように聞いてきた。
「今日の予定は?」
先週と同じ質問だった。でも、今週は答えが違う。
「今日は……どこへも行く予定はありません」
本当に、どこにも行きたいと思わなかった。先週、鷹宮と一緒に出かけたときのことを思い出す。自分のペースで歩けなかった。気になる店があっても立ち止まれず、服も鷹宮の好みで選ばれた。
また同じことになるくらいなら、出かけない方がいい。
そう思っていたことに、自分でも気づいていなかった。
「本当にどこも行かなくていいのか?」
鷹宮が、心配そうに覗き込んだ。
「もし必要なものがあれば、買いに行けばいい」
「はい。先週買っていただいたもので十分です」
「本当に?」
なぜか食い下がってくる。その様子がおかしくて、湊は小さく笑った。
「本当です。ありがとうございます」
「そうか」
鷹宮が、眉を下げた。残念そうな顔をしている。
その表情を見ると、胸の奥がぎゅっと締まった。なんだか、出かけないことが悪いことのように思えてくる。
「鷹宮さんこそ、どこかに出かけないんですか?」
話題を変えようとして、つい聞いた。
鷹宮が、目を見開いた。一瞬、驚いたような顔をする。
「僕は、特に出かける用事はない」
そして、湊をまっすぐに見つめて言った。
「君がどこも行かないのであれば、僕も出る必要はない」
その言葉が、胸に落ちた。
――俺に予定を合わせている。
鷹宮には鷹宮の生活があるはずだ。友人もいるだろう。行きたい場所だってあるだろう。それなのに、湊が出かけないから自分も出ない、と言っている。
「そう……ですか」
優しさなのだと思った。そのはずなのに、どこかが引っかかった。
鷹宮が、テーブルの上で手を組んだ。
「今日はどこも行く予定がないなら、先週の続きをやろうか」
湊の背筋が、ぴくりと強張った。
先週の続き。
スマートフォンに保存してある、連絡先の整理のことだ。
「え……と、あれから何もしてなくて……」
「構わない。今からやればいい」
鷹宮がソファに移動した。湊も、自然とついていく。
隣に座ると、鷹宮に距離を詰められた。肩が触れそうなほど近い。鷹宮の目が、湊をまっすぐに見つめている。
逃げられない。
「……わかりました」
湊は、スマートフォンを取り出した。ロックを解除し、連絡帳を開く。
「先週も言ったが、連絡先を残す相手は、親族や友人など最低限でいい」
鷹宮の声が、低く響いた。
「君に今必要なのは、休養だ」
湊は、ごくりと唾を飲み込んだ。
――休養。
確かにそうだ。親しくもない相手から連絡が来れば、精神が削られる。それが元婚約者の知り合いだったりしたら、なおさらだ。思い出したくないことを思い出させられる。
鷹宮の言うことは、正しいように感じた。
上から順番に、連絡先を確認していく。先週は「まだ連絡するかもしれない」と思って残した相手も、今日は消していく。
一件消すたびに、胸の奥が軋んだ。
自分の世界が、少しずつ狭くなっていく。名前が消えるたびに、繋がりが断たれていく。
でも、それは必要なことなのだ。休養のために。回復のために。
そう言い聞かせながら、指を動かし続けた。
再び、西村の名前で手が止まった。
西村直哉。
前の職場の同僚で、唯一、会社を辞めてからも連絡をくれていた人だった。最近は連絡がないが、もしかしたらまた連絡をくれるかもしれない。
前職で、西村だけが湊の心を許せる相手だった。
――どうしよう。
指が、削除ボタンの上で止まった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
*
通知バナーに、メッセージの内容が表示された。
『久しぶり』
西村からだった。
心臓が、跳ねた。
『元気か?』
『しばらく連絡してなかったから、気になって』
メッセージが、次々と届く。西村の、湊を気遣う言葉が並んでいく。
懐かしさに、思わず頬が緩んだ。
西村は元気にしているらしい。それだけで、胸が温かくなった。
返事をしようか迷っていると、さらにメッセージが届いた。
『今、どうしてるか心配してる』
『仕事の話もあるし、会って話さないか?』
湊の指が、止まった。
――仕事の話。
心臓が、どくりと鳴った。
仕事。働くということ。自分で稼ぐということ。
今の湊には、何もない。鷹宮に養われ、住む場所も食事も服も、すべて用意してもらっている。自分では何も持っていない。
でも、もし西村が仕事を紹介してくれるなら――。
自分で働ける。自分で稼げる。自分の足で立てる。
その可能性が、胸の奥で小さく光った。
湊は、横目で鷹宮を見た。
表情は凪いでいる。何を考えているのか、読めない。でも、視線はじっとスマートフォンの画面に注がれていた。
――見られている。
メッセージの内容も、きっと見えている。
でも、鷹宮は「連絡先は最低限残していい」と言った。友人は残していいとも言った。西村は、その「最低限」に入るはずだ。
だったら、返信しても問題ないはずだ。
湊が画面をタップしようとしたとき、鷹宮が口を開いた。
「その人は?」
低い声だった。
湊の指が、止まった。
「前の職場の同僚です。西村っていう――」
「前の職場の人間か」
鷹宮の声が、さらに低くなった。
「会社を辞めてからも、連絡を取り合っていたのか?」
「たまに、ですけど……」
「なぜ?」
その問いに、湊は答えられなかった。
なぜだろう。どうして西村とつながっていたかったのか。理由を言葉にしようとしても、うまくまとまらない。
鷹宮が、湊の手からスマートフォンを取り上げた。
「待っ――」
「仕事の話がある、と言っているな」
鷹宮が、画面を見つめている。声に感情がない。だからこそ、怖かった。
「今の君に、仕事は必要ない」
「でも――」
「君は、僕のところで働いている。他の仕事を探す必要はない」
正論だった。
鷹宮のところで働いている。住み込みで、秘書補助の仕事をしている。給料は借金の返済に充てられているから手元には残らないけれど、生活に困っていない。
他の仕事を探す理由など、ない。
「それは……そうですけど……」
「この人は、君に何を期待しているんだ?」
鷹宮が、湊を見た。目が冷たかった。
「久しぶりに連絡してきて、会いたいと言っている。仕事の話があると言っている。君を利用しようとしているんじゃないのか?」
「西村は、そんな人じゃ――」
「どうして分かる?」
鷹宮の声が、鋭くなった。
「君は以前も、人を信じて裏切られた。それを忘れたのか?」
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
元婚約者のことを言っている。信じて、愛して、すべてを捧げて、裏切られた。騙されていたことにも気づかなかった。
湊には、人を見る目がない。
それは、自分でも分かっていることだった。
「でも……西村は……」
声が、震えた。
「西村は、ずっと心配してくれてたんです。俺が会社を辞めてからも、たまに連絡をくれて……」
「それが本当かどうか、どうやって確かめる?」
鷹宮が、スマートフォンを湊に返した。
「君が外とつながることで、また傷つくかもしれない。僕は、それを見たくない」
その声は、優しかった。
優しいのに、喉が詰まった。
「今の君に必要なのは、外の人じゃない」
鷹宮が、湊の頬に手を添えた。
温かい手だった。指先が、そっと肌を撫でる。
「僕がいる。僕が守る。それだけで十分じゃないか」
湊は、鷹宮の目を見つめた。
穏やかで、優しくて、真剣な目。この人は本気で湊のことを心配している。傷ついてほしくないと思っている。
――守られている。
その感覚が、胸に広がった。
でも同時に、息苦しさも感じていた。
「……返信、してもいいですか」
小さな声で、聞いた。
鷹宮の手が、止まった。
「何と返すつもりだ?」
「今は……会えない、って……」
それ以上は言えなかった。
会いたくないわけじゃない。でも、会うと言ったら鷹宮がどんな顔をするか分からない。怒らせたくない。嫌われたくない。
この場所を、失いたくない。
「それでいい」
鷹宮が、小さく頷いた。
「会えないと伝えろ。理由は言わなくていい」
「……はい」
湊は、震える指でメッセージを打った。
『連絡ありがとう。今はちょっと会えない。落ち着いたらこっちから連絡する』
送信ボタンを押す前に、鷹宮が画面を覗き込んできた。
見られている。
確認されている。
湊は、そのままボタンを押した。
メッセージが送信された。
すぐに既読がついた。返信が来るかと思ったが、西村からはそれ以上何も届かなかった。
――怒らせたかな。
胸が、ちくりと痛んだ。
鷹宮が、湊の肩に手を置いた。
「それでいい」
また、同じ言葉を言った。
「君は、ここにいればいい。外のことは、考えなくていい」
*
その夜、湊はベッドの中で目を開けていた。
眠れなかった。
西村のメッセージが、頭から離れない。
『会って話さないか?』
会いたかった。
本当は、会いたかった。
久しぶりに、鷹宮以外の人間と話したかった。昔の話をしたかった。仕事の話を聞きたかった。自分がまだ「外の世界」とつながっていると、確認したかった。
でも、断ってしまった。
鷹宮に見られていたから。怒らせたくなかったから。
――違う。
湊は、目を閉じた。
違う。本当は、分かっている。
断ったのは、鷹宮のせいじゃない。自分で選んだのだ。会わないと決めたのは、自分だ。
でも、本当に、自分で選んだのだろうか。
鷹宮がいなかったら、返信の内容は違っていたのではないか。
画面を覗き込まれていなかったら、「会おう」と言っていたのではないか。
分からなかった。
自分の意志なのか、鷹宮の意志なのか。どこまでが自分の選択で、どこからが誘導されているのか。
境界が、曖昧になっている。
スマートフォンを取り出して、連絡帳を開いた。
西村直哉の名前が、まだそこにある。
消されていない。消していない。
――これは、俺の意志だ。
この名前を残すことだけは、自分で決めた。鷹宮に言われても、消さなかった。
それだけが、湊に残された「外の世界」だった。
スマートフォンを胸に抱いて、目を閉じた。
眠れないまま、朝が来た。
*
翌朝、朝食の席で鷹宮が言った。
「昨日の人から、返信は来たか?」
湊は、首を横に振った。
「来てないです」
「そうか」
鷹宮は、それ以上何も言わなかった。
でも、湊には分かった。
鷹宮は、西村から返信が来なかったことに安心しているのだ。湊と外の世界の繋がりが、また一つ細くなったからだ。
「今日は、会社で少し作業がある。一緒に行くぞ」
「……はい」
湊は、頷いた。
鷹宮について行く。言われた通りに動く。考えなくていい。従っていればいい。
その方が、楽だった。
でも、胸の奥で、何かがくすぶっていた。
西村のメッセージ。『仕事の話がある』という言葉。
自分で働く。自分で稼ぐ。自分の足で立つ。
その可能性が、まだ消えていなかった。
湊は、鷹宮の背中を見つめながら思った。
――いつか、ここから出られるのだろうか。
出たいのかどうかさえ、もう分からなくなっていた。
朝の光が、キッチンに差し込んでいた。 窓から見える空は、澄んだ青色だった。雲一つない、穏やかな朝。 初めて、雄一と並んでキッチンに立った。 手伝うといい出したものの、雄一のあまりの手際の良さに、その場に立ち尽くすしかなかった。逆に手出しすれば、邪魔になってしまう。 野菜を切る音が、リズミカルに響いている。フライパンが温まる音。卵を溶く音。 雄一の動きは、無駄がない。まるで、何年も同じ動作を繰り返してきたかのような自然さ。 湊は、その姿を見つめていた。 昨夜のことが、まだ頭に残っている。書斎での会話。雄一の過去。あの悲しそうな目。 そして、今朝の抱擁。 少しずつ、壁が溶けていく感覚があった。「ずっと思ってたんですけど、雄一さんっていつから自炊してるんですか?」 雄一は、手元から目線を外さずに答えた。「僕は大学時代にひとり暮らしをしていたからね。そのときからだ」「そうですか……。すごいですね」「大したことなどしていない。食べることは身体を作るもとになるから、きちんと整えたいだけだ」 確かに、いわれればその通りだ。人の身体は、食べたもので作られている。食材を選んで丁寧に調理すれば、中になにが入っているか自分でも把握できるし、健康維持に役立つ。 湊は、食べることに関して無頓着だった。食べられればいいと思っていたし、お金がなければ食べなければいい。そんなふうだったから、体調を壊しやすかったのかもしれない。 ネットカフェで暮らしていたころを思い出した。コンビニのおにぎりと、カップ麺。それが、湊の食事だった。 あのころの自分と、今の自分は、全く違う。 雄一と出会って、変わった。「雄一さんはすごいですね……。俺なんて自炊したことないから……」「これからやればいい。僕が教えるから」 雄一は包丁を握っていた手を休め、湊に目を向けた。口角が少し上がって
湊は、身体中が痛くて目が覚めた。 まるでネットカフェで寝起きしていたころのように、身体がだるい。首が凝っている。腰も痛い。全身が軋んでいる。 部屋の中は薄暗く、夜明け前だということが分かった。 薄暗い中、目を凝らして天井を見つめた。そこは、いつも見ているゲストルームではなかった。 昨日、雄一の書斎で身体を合わせたのだった。そのままソファで寝てしまったらしい。 記憶が、ゆっくりと戻ってくる。 雄一の過去を聞いた。母親と父親を亡くし、義母と弟にすべてを奪われ、恋人まで奪われたという話だ。 だから雄一は、大切なものを囲い込もうとするのだ。 失う前に、手元に置いておきたいのだ。 その気持ちが、痛いほど分かった。 雄一の姿を探すと、湊の足元のソファに背中を預けて、床に座ったまま眠っていた。 そんな姿勢だと、身体が痛くなるだろうに。 ベッドもソファもあるのに、なぜ床に座って寝ているのだろう。 湊は、その姿を見て、胸が締め付けられた。 熱烈に肌を合わせたのが嘘のような距離感だった。 昨夜は、あんなに近かったのに。あんなに熱く繋がったのに。 今は、まるで別々の世界にいるようだ。 それはきっと、雄一の心の中にある不安を表しているのだろう。 雄一は、常に不安なのだ。 義母と弟に大切なものを奪われ続けてきた。だからこそ、大切なものを囲い込もうとする。 でも同時に、どんなに囲っても、いつかは奪われると思っている。 どんなに愛しても、いつかは去っていくと思っている。 だから、近づきすぎることを恐れている。 けれど今、湊は雄一の腕の中にいない。 雄一ががんじがらめに縛りつけていたものが、少しゆるんだのだと感じた。 以前の雄一なら、湊を腕の中に閉じ込めて眠っていただろう。離さないように、逃げられないように。 でも今は、床に座って、湊から少し離れた場所で眠っている。
ダイニングテーブルの片隅には、ロジカルシンキングに関する本が積み上げられていた。 雄一の役に立ちたくて、ロジカルシンキングを勉強したいと思った。まずは論理的な考え方を身につける必要があると感じたからだ。「俺、考えをまとめるのが苦手で……」 雄一にそう溢すと、ロジカルシンキングを学ぶことを勧められた。「それなら、僕も何冊か本を持っている」 そういって、書斎から本を持ってきてくれた。社長は、自分の事業だけでなく幅広い知識が必要だと考えており、日頃から学んでいるのだという。 最初は、帰納法や演繹法などといわれてもちんぷんかんぷんだった。でも、本を読み進めていくうちに、なんだか面白くなってきた。 今まで、頭の中でどのような処理が行われているかなんて、考えもしなかった。脳の働きってすごいな、と感心しながら学んでいるうちに、自分が今どんな思考をしているのかがわかるようになってきた。それがとても面白い。 湊は、ソファに座っている雄一に目を向けた。 彼は真剣にタブレット端末を見ている。最近知ったのだが、雄一は読書家らしい。電子書籍で本を読み、新聞にもオンラインで目を通しているといっていた。その中には業界紙も含まれているそうだ。「紙は場所を取るからな」 その言葉を聞くと、やはり雄一は効率的だと思う。 そんな雄一が、眉間に皺を寄せながらタブレット端末を見つめている。きっとなにか気になる記事があったのだろう。その目は、とても真剣だった。 以前だったら、こんな自由な時間を持てるなんて思わなかっただろう。常に雄一に監視されていると思い込んでいたから、なにをするにもびくびくしていた。 でも今は、違う。 幸せだな。 湊は口元を緩めて、再び手元の本に目を落とした。* 湊は、全ての本を読み終えて、伸びをした。 ソファに目を向けると、雄一はそこにいなかった。「雄一さん?」 声をかけてみたが、返事はない。トイレへ行っているのかと思って見に
目が覚めると、真っ白な天井が目に入った。 朝のやさしい光が、カーテンの隙間から漏れている。 何度も、この部屋で目を覚ました。自由がなくて息苦しくなり、逃げ出したこともある。けれど、結局はまた戻ってきた。 以前は息苦しさを感じていたのに、嘘のように今はそれがない。 それはきっと、昨日「自由」を得たからだ。いや、「自由」という名の囲いの中にいると知った、といったほうがいいのかもしれない。 もうこれからは、怯えて生きる必要などない。借金取りに追われることも、相馬のことを思い出して悲しむこともない。 過去は、処理された。 その事実が、湊の心を軽くしていた。 ベッドから身体を起こした。 あたりは静寂に包まれていた。部屋はしんと静まり返り、なんとなく寂しく、冷たく感じた。まるで氷の中に閉じ込められたような感覚だった。 以前なら、この静けさが怖かった。閉じ込められている、と感じていた。 でも今は、違う。 雄一の「君は自由になれる」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 本当に湊は自由になれるのだろうか。この囲われた生活の中で、自由を手に入れられるのだろうか。 それは、わからない。 けれど、雄一に守られていることだけは確かだった。 守られている。その言葉を、湊は初めて素直に受け入れることができた。 以前は「囲われている」と感じていた。縛られている、閉じ込められている、と。 でも今は、少し違う見方ができるようになっていた。 雄一は、湊を傷つけようとしているわけではない。湊を苦しめようとしているわけではない。 ただ、不器用なのだ。愛し方が、わからないのだ。 表情が乏しくて、言葉が少なくて、感情の伝え方を知らない人。 でも、その奥には、本物の愛情がある。湊を大切に思う気持ちがある。 それを、湊はようやく理解し始めていた。 守られながら、なにかできるかもしれない。 そう思った瞬間、心が
もうすっかり、雄一のそばでの生活にも慣れてきた。 最初はなにもせずに、ただそばにいるだけだった。雄一についていって、会議を聞いて、商談を見て、移動して、帰ってくる。それだけの毎日。 でも、湊の性格上、じっとしているのが苦手だ。なにかしていないと落ち着かない。手持ち無沙汰でいると、自分が価値のない存在に思えてくる。 だから、雄一に頼み込んだ。「なにか、仕事をさせてください」 最初は断られた。「君はなにもしなくていい」と。でも、湊は引き下がらなかった。何度も、何度も頼んだ。 そして、ようやく許可が出た。 職場の執務室で、お茶を出したり書類を整理したりする雑務。本当の秘書の仕事ではないけれど、なにもしないよりはずっとマシだった。「仕方ないな」 雄一はそういった。口調は呆れたようなのに、表情はどこか嬉しそうだった。 それも、他人が見てもまったくわからないほどの変化だった。少しだけ目尻が下がって、口角が上がっている。湊だから気づける、微かな変化。 雄一は、湊が出奔する以前よりも表情が豊かになったように感じる。こうやって嬉しそうな顔をしてくれる。困った顔をする。笑う。 もちろん、他人にはわからないほどの表情の変化だと思う。でも、湊にはわかる。 それが、少し嬉しかった。 執務室での仕事は、雑用でも任せてもらえるからいい。 お茶を入れて、「ありがとう」といわれる。書類を整理して、「助かった」といわれる。小さなことだけど、役に立っているという実感がある。 三崎とも、少しずつ話すようになった。雄一が三崎に対して嫉妬したことがあることから、最初は警戒していたけれど、三崎は意外と親切だった。仕事のやり方を教えてくれたり、わからないことを説明してくれたり。 ただ、時々、三崎の目が鋭くなることがあった。なにかを観察しているような、品定めしているような目。 それがなにを意味するのか、湊にはわからなかった。 執務室での仕事は良かったけれど、外出だけは苦痛だった。 取引先との商
雄一のもとに戻って、朝を迎えた。 いつもと同じ時間に起きてシャワーを浴び、雄一の作った朝食を食べた。前と変わらない朝だった。 テーブルには、完璧に盛り付けられた和食が並んでいる。焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯。どれも美味しそうで、栄養バランスも考えられていた。 雄一は、湊のためにこれを作ってくれた。毎朝、湊より早く起きて、黙々と準備をしてくれている。 そのことに、感謝すべきなのだろう。でも、湊の心は複雑だった。 自分ではなにもできない。なにもさせてもらえない。ただ、用意されたものを受け取るだけ。 それが、湊の役割だった。「今日は僕と一緒に外回りについてきてくれ」 今までは、平日であっても「今日の予定は?」と聞かれていた。秘書の仕事を告げると、雄一は満足げに頷いていた。 しかし今日は、予定を聞かれることなく、雄一から今日の予定を告げられた。 湊の予定ではなく、雄一の予定に組み込まれている。湊は雄一のスケジュールの一部になっていた。「分かりました」 湊は、頷くしかなかった。「必要なものがあれば僕が買うから、言って」「今のところ、特にありません」「そうか」 雄一は頷いた。口元がなんとなく緩んでいるのは、湊がここにいるからだろうか。 湊がそばにいるだけで、うれしいのだろうか。 そう思うと、複雑な気持ちになった。うれしいような、苦しいような。「そうだ。これ」 雄一が、スマートフォンを取り出した。 湊が逃げたときに、この部屋に置いていったものだ。位置情報を追跡されないように、わざと置いていった。「ここに忘れていただろう? 初期化しておいたから」「えっ?」 その言葉に、ぞっとした。 初期化。つまり、中身は全て消えたということだ。連絡先も、メッセージの履歴も、写真も、アプリも。全て、なくなった。 西村の連絡先も。山田の連絡先も。外の世界との繋がりが、全て消えた。