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第五話 必要な連絡先

Author: 海野雫
last update publish date: 2026-02-05 20:00:25

 あれから一週間が過ぎた。

 鷹宮から連絡先の整理を促されることもなく、平穏な日々が続いていた。あのとき「ゆっくりやっていこう」と言ってくれたのは本当だったらしい。「強制ではない」とも言っていた。しつこく迫ってくる性格ではないのだと分かり、湊は少し安心していた。

 平日の仕事を淡々とこなし、二度目の週末を迎えた。

 朝食の席で、鷹宮がいつものように聞いてきた。

「今日の予定は?」

 先週と同じ質問だった。でも、今週は答えが違う。

「今日は……どこへも行く予定はありません」

 本当に、どこにも行きたいと思わなかった。先週、鷹宮と一緒に出かけたときのことを思い出す。自分のペースで歩けなかった。気になる店があっても立ち止まれず、服も鷹宮の好みで選ばれた。

 また同じことになるくらいなら、出かけない方がいい。

 そう思っていたことに、自分でも気づいていなかった。

「本当にどこも行かなくていいのか?」

 鷹宮が、心配そうに覗き込んだ。

「もし必要なものがあれば、買いに行けばいい」

「はい。先週買っていただいたもので十分です」

「本当に?」

 なぜか食い下がってくる。その様子がおかしくて、湊は小さく笑った。

「本当です。ありがとうございます」

「そうか」

 鷹宮が、眉を下げた。残念そうな顔をしている。

 その表情を見ると、胸の奥がぎゅっと締まった。なんだか、出かけないことが悪いことのように思えてくる。

「鷹宮さんこそ、どこかに出かけないんですか?」

 話題を変えようとして、つい聞いた。

 鷹宮が、目を見開いた。一瞬、驚いたような顔をする。

「僕は、特に出かける用事はない」

 そして、湊をまっすぐに見つめて言った。

「君がどこも行かないのであれば、僕も出る必要はない」

 その言葉が、胸に落ちた。

 ――俺に予定を合わせている。

 鷹宮には鷹宮の生活があるはずだ。友人もいるだろう。行きたい場所だってあるだろう。それなのに、湊が出かけないから自分も出ない、と言っている。

「そう……ですか」

 優しさなのだと思った。そのはずなのに、どこかが引っかかった。

 鷹宮が、テーブルの上で手を組んだ。

「今日はどこも行く予定がないなら、先週の続きをやろうか」

 湊の背筋が、ぴくりと強張った。

 先週の続き。

 スマートフォンに保存してある、連絡先の整理のことだ。

「え……と、あれから何もしてなくて……」

「構わない。今からやればいい」

 鷹宮がソファに移動した。湊も、自然とついていく。

 隣に座ると、鷹宮に距離を詰められた。肩が触れそうなほど近い。鷹宮の目が、湊をまっすぐに見つめている。

 逃げられない。

「……わかりました」

 湊は、スマートフォンを取り出した。ロックを解除し、連絡帳を開く。

「先週も言ったが、連絡先を残す相手は、親族や友人など最低限でいい」

 鷹宮の声が、低く響いた。

「君に今必要なのは、休養だ」

 湊は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 ――休養。

 確かにそうだ。親しくもない相手から連絡が来れば、精神が削られる。それが元婚約者の知り合いだったりしたら、なおさらだ。思い出したくないことを思い出させられる。

 鷹宮の言うことは、正しいように感じた。

 上から順番に、連絡先を確認していく。先週は「まだ連絡するかもしれない」と思って残した相手も、今日は消していく。

 一件消すたびに、胸の奥が軋んだ。

 自分の世界が、少しずつ狭くなっていく。名前が消えるたびに、繋がりが断たれていく。

 でも、それは必要なことなのだ。休養のために。回復のために。

 そう言い聞かせながら、指を動かし続けた。

 再び、西村の名前で手が止まった。

 西村直哉。

 前の職場の同僚で、唯一、会社を辞めてからも連絡をくれていた人だった。最近は連絡がないが、もしかしたらまた連絡をくれるかもしれない。

 前職で、西村だけが湊の心を許せる相手だった。

 ――どうしよう。

 指が、削除ボタンの上で止まった。

 そのとき、スマートフォンが震えた。

 通知バナーに、メッセージの内容が表示された。

『久しぶり』

 西村からだった。

 心臓が、跳ねた。

『元気か?』

『しばらく連絡してなかったから、気になって』

 メッセージが、次々と届く。西村の、湊を気遣う言葉が並んでいく。

 懐かしさに、思わず頬が緩んだ。

 西村は元気にしているらしい。それだけで、胸が温かくなった。

 返事をしようか迷っていると、さらにメッセージが届いた。

『今、どうしてるか心配してる』

『仕事の話もあるし、会って話さないか?』

 湊の指が、止まった。

 ――仕事の話。

 心臓が、どくりと鳴った。

 仕事。働くということ。自分で稼ぐということ。

 今の湊には、何もない。鷹宮に養われ、住む場所も食事も服も、すべて用意してもらっている。自分では何も持っていない。

 でも、もし西村が仕事を紹介してくれるなら――。

 自分で働ける。自分で稼げる。自分の足で立てる。

 その可能性が、胸の奥で小さく光った。

 湊は、横目で鷹宮を見た。

 表情は凪いでいる。何を考えているのか、読めない。でも、視線はじっとスマートフォンの画面に注がれていた。

 ――見られている。

 メッセージの内容も、きっと見えている。

 でも、鷹宮は「連絡先は最低限残していい」と言った。友人は残していいとも言った。西村は、その「最低限」に入るはずだ。

 だったら、返信しても問題ないはずだ。

 湊が画面をタップしようとしたとき、鷹宮が口を開いた。

「その人は?」

 低い声だった。

 湊の指が、止まった。

「前の職場の同僚です。西村っていう――」

「前の職場の人間か」

 鷹宮の声が、さらに低くなった。

「会社を辞めてからも、連絡を取り合っていたのか?」

「たまに、ですけど……」

「なぜ?」

 その問いに、湊は答えられなかった。

 なぜだろう。どうして西村とつながっていたかったのか。理由を言葉にしようとしても、うまくまとまらない。

 鷹宮が、湊の手からスマートフォンを取り上げた。

「待っ――」

「仕事の話がある、と言っているな」

 鷹宮が、画面を見つめている。声に感情がない。だからこそ、怖かった。

「今の君に、仕事は必要ない」

「でも――」

「君は、僕のところで働いている。他の仕事を探す必要はない」

 正論だった。

 鷹宮のところで働いている。住み込みで、秘書補助の仕事をしている。給料は借金の返済に充てられているから手元には残らないけれど、生活に困っていない。

 他の仕事を探す理由など、ない。

「それは……そうですけど……」

「この人は、君に何を期待しているんだ?」

 鷹宮が、湊を見た。目が冷たかった。

「久しぶりに連絡してきて、会いたいと言っている。仕事の話があると言っている。君を利用しようとしているんじゃないのか?」

「西村は、そんな人じゃ――」

「どうして分かる?」

 鷹宮の声が、鋭くなった。

「君は以前も、人を信じて裏切られた。それを忘れたのか?」

 その言葉が、胸の奥に突き刺さった。

 元婚約者のことを言っている。信じて、愛して、すべてを捧げて、裏切られた。騙されていたことにも気づかなかった。

 湊には、人を見る目がない。

 それは、自分でも分かっていることだった。

「でも……西村は……」

 声が、震えた。

「西村は、ずっと心配してくれてたんです。俺が会社を辞めてからも、たまに連絡をくれて……」

「それが本当かどうか、どうやって確かめる?」

 鷹宮が、スマートフォンを湊に返した。

「君が外とつながることで、また傷つくかもしれない。僕は、それを見たくない」

 その声は、優しかった。

 優しいのに、喉が詰まった。

「今の君に必要なのは、外の人じゃない」

 鷹宮が、湊の頬に手を添えた。

 温かい手だった。指先が、そっと肌を撫でる。

「僕がいる。僕が守る。それだけで十分じゃないか」

 湊は、鷹宮の目を見つめた。

 穏やかで、優しくて、真剣な目。この人は本気で湊のことを心配している。傷ついてほしくないと思っている。

 ――守られている。

 その感覚が、胸に広がった。

 でも同時に、息苦しさも感じていた。

「……返信、してもいいですか」

 小さな声で、聞いた。

 鷹宮の手が、止まった。

「何と返すつもりだ?」

「今は……会えない、って……」

 それ以上は言えなかった。

 会いたくないわけじゃない。でも、会うと言ったら鷹宮がどんな顔をするか分からない。怒らせたくない。嫌われたくない。

 この場所を、失いたくない。

「それでいい」

 鷹宮が、小さく頷いた。

「会えないと伝えろ。理由は言わなくていい」

「……はい」

 湊は、震える指でメッセージを打った。

『連絡ありがとう。今はちょっと会えない。落ち着いたらこっちから連絡する』

 送信ボタンを押す前に、鷹宮が画面を覗き込んできた。

 見られている。

 確認されている。

 湊は、そのままボタンを押した。

 メッセージが送信された。

 すぐに既読がついた。返信が来るかと思ったが、西村からはそれ以上何も届かなかった。

 ――怒らせたかな。

 胸が、ちくりと痛んだ。

 鷹宮が、湊の肩に手を置いた。

「それでいい」

 また、同じ言葉を言った。

「君は、ここにいればいい。外のことは、考えなくていい」

 その夜、湊はベッドの中で目を開けていた。

 眠れなかった。

 西村のメッセージが、頭から離れない。

『会って話さないか?』

 会いたかった。

 本当は、会いたかった。

 久しぶりに、鷹宮以外の人間と話したかった。昔の話をしたかった。仕事の話を聞きたかった。自分がまだ「外の世界」とつながっていると、確認したかった。

 でも、断ってしまった。

 鷹宮に見られていたから。怒らせたくなかったから。

 ――違う。

 湊は、目を閉じた。

 違う。本当は、分かっている。

 断ったのは、鷹宮のせいじゃない。自分で選んだのだ。会わないと決めたのは、自分だ。

 でも、本当に、自分で選んだのだろうか。

 鷹宮がいなかったら、返信の内容は違っていたのではないか。

 画面を覗き込まれていなかったら、「会おう」と言っていたのではないか。

 分からなかった。

 自分の意志なのか、鷹宮の意志なのか。どこまでが自分の選択で、どこからが誘導されているのか。

 境界が、曖昧になっている。

 スマートフォンを取り出して、連絡帳を開いた。

 西村直哉の名前が、まだそこにある。

 消されていない。消していない。

 ――これは、俺の意志だ。

 この名前を残すことだけは、自分で決めた。鷹宮に言われても、消さなかった。

 それだけが、湊に残された「外の世界」だった。

 スマートフォンを胸に抱いて、目を閉じた。

 眠れないまま、朝が来た。

 翌朝、朝食の席で鷹宮が言った。

「昨日の人から、返信は来たか?」

 湊は、首を横に振った。

「来てないです」

「そうか」

 鷹宮は、それ以上何も言わなかった。

 でも、湊には分かった。

 鷹宮は、西村から返信が来なかったことに安心しているのだ。湊と外の世界の繋がりが、また一つ細くなったからだ。

「今日は、会社で少し作業がある。一緒に行くぞ」

「……はい」

 湊は、頷いた。

 鷹宮について行く。言われた通りに動く。考えなくていい。従っていればいい。

 その方が、楽だった。

 でも、胸の奥で、何かがくすぶっていた。

 西村のメッセージ。『仕事の話がある』という言葉。

 自分で働く。自分で稼ぐ。自分の足で立つ。

 その可能性が、まだ消えていなかった。

 湊は、鷹宮の背中を見つめながら思った。

 ――いつか、ここから出られるのだろうか。

 出たいのかどうかさえ、もう分からなくなっていた。

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